東華学校の設立から閉校までの年表

Posted by on 2月 13, 2017 in 活動報告
東華学校の設立から閉校までの年表

東華学校の設立から閉校までの年表

   

同志社校友会宮城県支部 相談役 三浦 勝 編

 

 

 

 

明治17年(1884)12月5日

新島襄、N.G.クラーク( アメリカンボード総幹事)とともにニューヨーク州クリンフトンスプリングで温泉療養に入る。この間、東北地方への伝道と英学校の設立について熟慮を重ねる。

 

明治18年(1885)1月8日

新島襄、N.G.クラークに東北地方への伝道を提案し、同意を得る。

 

同 1月10日

新島襄、N.G.クラークに東北伝道に関して地図を添えて、派遣すべき地名と伝道者を記した長文の書簡を送る。

市原盛宏に対しても、東北伝道を仙台まで拡張するように勧告する。

 

 

市原盛宏

熊本バンド。同志社一回生。東華学校副校長。エール大学留学。同志社社長代理。

横浜市長、朝鮮銀行初代総裁。

 

 

同 9月

新島襄、フィリップスアカデミー、アンドーヴァ神学校、アーモスト大学で、東北での布教と教育について訴える。

 

同 10月17日付

新島襄、小崎弘道に書簡。

「・・・・・殊ニ東奥ハ、随分昔時ヨリ学者の輩出セシ所、先見家之起リシ所、其地方ニ向ヒ我輩福音之網羅ヲ皇張セサルベカラズ・・・・又仙台之如キハ人間之多キ所此ヨリ二千三百里北辰直下ニ十字架ヲ立テン事ハ、小生平素之宿志ナリ、兄ニ於而如何ト為ス

 

 

 

小崎弘道

熊本バンド。新島没後、同志社第二代社長。霊南坂教会を創設し、日本組合基督教会会長、日本基督教連盟会長などを務めた。

 

 

同 10月22日付

新島襄、小崎弘道に書簡。

「・・・・地之便利ヲ論スレバ仙台ニ若クハナシ、之ヲ除カバ福島ナルベシト存候・・・・」

 

同 10月28日

新島襄、N.G.クラークへの書簡。

① 日本行きを考えているアンドーヴァ神学校の学生のこと。

② O.Hギューリックを東北地方に派遣すること。

③ 東北地方に開設する学校のために、4~5千ドルを必要とすること。

 

同 11月2日

新島襄から、小崎弘道、松山高吉への書簡。

東北伝道と学校開設に対する非常に強い決意を伝える。

「仙台地方着手ニツキ、東京宣教師、又教会中誤テ喋々スルモノアルモ決シテ顧慮スル勿レ、今日此好機ヲ失ハバ、他日該地方ニ伝道スルノ機会ヲ失フベシ、不動、不撓、定論ヲ執シ、容々易々ニ他人ノ動カス所トナリ賜フ勿レ、該地ヲ十字旗下ニ降スルハ今日ニアリ、進ンテ取ルベシ、主ノ賜フ所ヲ他人ノ喋々ニヨリ鳥有ニ属セシムルコト勿レ、別シテ仙台ノ如キハ一大都市ナリ、一ニノ会社ヨリ巳ニ着手スルモ我輩ノ侵入ヲ拒ムノ一理ナシ、働キテノ多ク行ク程該地方ノ幸福タルベシ、之ヲ拒ムルノ輩アラハ、此レ主ノ為ニ働ク者ニアラス、乃チ宗派ノ為ニ働クナリ、願フハ他人ノ喋々ニ耳ヲ傾クル勿レ、此ノ好機ヲ失イ賜フ勿レ、」

 

 

 

 

松山高吉

同志社理事、教授。日本で最初に全訳された『旧約聖書』『新約聖書』の翻訳に協力。日本最初の讃美歌の編纂にも参加、自ら作詞もした。

 

 

同 11月19日

新島襄、サンフランシスコ出発。

 

同 12月12日

横浜に入港。小崎、松山とともに東京に向かい、松山宅に一泊。

 

同 12月14日

新島襄、富田鉄之助を訪問。

 

富田鉄之助「鉄雲日記」

新島襄外国ヨリ帰リ来リ、明日西京ニ帰ル由ニテ来訪ス、仙台ニ学校ヲ建ンコトヲ企テ、相談セラル

 

新島襄「出遊記」

「十二月十三、十四日の頃東京にあり、富田氏の家を訪う。幸に同氏に面会し予の東北策を陳じ、学校を仙台に開くべきか、将た福島に設くべきかを問うに、氏は仙台は奥羽の中央たれば、宜しく仙台に設くべきことを勧め呉れたり。

 

この日の会談で富田は新島が仙台に男子学校を設立するならば、新島を信じ応分の協力をすることを約束した。(この時、押川方義も仙台に学校設立の計画をしていることを知る。)

 

この富田日記にみられるように、新島の発起で富田が相談を受け、それから設立に向けて動き出した ことがわかる。

 この会談を起点として、富田の仙台における学校創立の熱意は昂揚し、富田を代表とする旧仙台藩士が組織する「仙台造士議会」を中心に、地元の人々も大賛成し、その実現に向かって動き出した。

(「宮城英学校の設立始末(1)」 太田雅夫著)

 

 

同 12月14日~明治19年(1886)10月11日

富田日記に宮城英学校に関する記述が28回ある。

 

明治18年(1885)12月17日~明治19年(1886)10月8日

新島宛富田書簡19通が同志社に保存されている。

 

明治19年(1886)1月22日

富田日記に富田、新島、松倉の三者会談で「新島発起ノ学校創立ノ事ヲ計ル 議粗成ル」とある。

 

同 1月23日

新島、富田とともに森有礼文部大臣を訪ね、創設の意見を具申し賛成を得る。

 

同 1月26日

新島からN.G.クラークへの書簡。

三者間の協議結果を、クラークに手紙を書き、少なくとも3名の人材派遣が必要であることを要請した。

 

同 1月29日

新島、安中より帰り富田宅に一泊。

 

同 2月6日

富田から新島への書簡。

富田が仙台に帰り、有志(黒川剛)に報告したら大賛成を得たこと。郷有(鈴木大亮、松倉恂)と相談したが「何茂大賛成」とある。

 

同 2月9日付

新島より東京在住の松山高吉、小崎弘道、湯浅治郎宛書簡で、グリーンの学校一致説には「大不同意ナリ」と伝える。

 

 

湯浅治郎

同志社や義弟・徳冨蘇峰の民友社を経済的に支援。同志社理事。

五男の湯浅八郎は、同志社大学第10代・第12代総長、国際基督教大学設立に参画し同大学初代総長。

 

 

同 2月11日

大阪で、アメリカンボードの会議が開催され、協議の結果、次の事が決められた。

①ミッション本部に3人の宣教師の派遣を要請する。

②東京のドイツ改革派宣教師と「断判」する。交渉要員はグリーンとデフォレストとする。

③当方は男子校、先方が女学校の案もしくは両方が合同で男子校を開校する案を出す。

 

同 2月12日付

グリーン、デフォレストの2名が、一致教会の宣教師として懸け合いに行くので、「此度ノ好機会ハ再難度、今、之ヲ失ハ向来之東北伝導上ハ非常ノ損亡ヲ来スベキ、云々ヲ陳べ」と断固として推進することを、両宣教師に勧めて欲しいと依頼した。

 

同 2月12日付

新島は富田にも書簡を送り、大阪の宣教師会での協議結果を知らせた。

 

同 2月17日付

新島襄、ボストンのN.G.クラークにも協議結果を報告。

 

同 2月17日付

富田から新島宛の書簡。

松平正直宮城県令が上京、森文部大臣と学校創設の話をしたことと、押川方義にも仙台に英学校開設計画があることを知らされた。その上で、「同規模同類ノモノ二校相立」は得策ではないので、押川方義と調整されたいという要請であった。

 

同 2月28日

富田が、森文部大臣、松平宮城県令、鈴木大亮を招待して、仙台の学校設立を協議、熱心に働きかけた

 

同 3月5日

新島から富田宛書簡。

仙台でホーイが有志を募り土地を買い入れて校舎を建築中という情報について、富田に問い合わせる。

 

同 3月7日

富田より新島への返信。

ホーイとは如何なる人物かを糾し、あくまでも申し合わせの通り、初志貫徹をはかりたいと伝えてきた。

 

同 3月20日頃

押川新島会談(第1回、於神戸)

押川は、「仙台ニ諸方ヨリ着手スルヨリモ、一方ニ着手スルナラバ、他ノ人ハ他所ニ着手スルガ伝道上、経済上得策デアル」そして、仙台に帰ったら学校設立の模様を逐一報告すると述べた。新島は、報告を待つと答えて会談は終わった。

 

同 3月22日付

新島から富田への書簡。

押川との会談の結果と、アメリカンボードから「新島仙台ニ赴クベシ」の電信を受け取ったことを知らせた。

 

同 3月23日付

富田より新島への書簡。

仙台の松倉恂、岩淵廉にホーイの動きを調査させ、その結果を知らせてきた。

 

同3月26日付

富田から新島への書簡。

新島の書面での押川等の動向と、仙台からの報告は全く符写しない。押川の心情甚だ不審であるから、あれこれ考えず、一刻も早く仙台で学校設立の趣意書を新島と東京の仙台人、仙台の有志などの連名で公表し、有志家を募ることこそ緊要だと述べた。

 

同 3月29,30日付

新島から富田への書簡。

押川の方で英学校建設に取り組むのであれば、「重複ナルモ、無益ナレバ予ハ手ヲ引クベキヤ否ヤ」の照会をしたのである。押川との会談後、新島は押川の強引さに押されてか、すっかり弱気になり、仙台での英学校設立について逡巡するのである。

 

同 4月3日付

富田から新島への書簡。

「・・・・・・・押川氏企度之義ニ付テ尊兄至極御懸念ノ様拝察致候処、小生ニハ左ノミ心配ハ不仕候.其仔細ハ押川氏仙台ノ人望ト動作ハ過日両度申上候如ク、決シテ恐ルル様ニハ無之候、且亦御互ニテ企候義ハ未タ発表コソ不致候得共已ニ三、四名ノ名望家ニ相ハカリ何レモ大賛成、加ルニ県令ヘモ篤ト内談相遂ケ着手ノ節ハ尽力致候事ニ内約相調居候得ハ、小生ノ方指置、他人ニ尽力致候事難有成今日之場合ニ御座候、押川氏自力ヲ以テ創設致し候事ナレハイザシラズ他力ヲ借リ得ル事ハ十分出来得ベキ場合ニ無之故先ツ恐ルゝニ足ザル事ト自信致居候・・・・・・・中略

就キテハ矢張先達内談致候主趣ヲ以、創設ノ要領ヲ発表、着手順序ヲ計画致度所存ニ御座候、

・・・・・・(中略)着手ハ速ナル方、機会ハ不可失候得ハ御繰合次第速ニ御出京願上候右要用ノミ如比ニ候、」

 

この書簡の中略の部分で、富田は重要な下記の提案をしている。

然レトモ段立御申越之次第モ有之候間、御手許方ト、仙台ノ方ト両端宜敷ニ斟酌シ、先ツ着手之場合丈ハ、小生初メ名望家ヲ以テ発起人ト相定メ発表シ有志家ヲ集メ金力家ヲ誘ヒ、尊兄ト米人トヲ相聘シ候事ニ候バ御斟酌之筋道ニモ相叶候判ト愚按致候、尊兄如何カ、若右愚按之通リニ可然ト御見込ニ候バ尚篤ト御相談相遂度候条、一寸御出京相願度候、御相談ノ様ニヨリテハ仙台迄御下リ不被下ハ難相叶場合モ可有之候、宜敷御含ヲ以御出京相願候

 

同 4月6日付

新島からN.G.クラークへの書簡。

仙台への教員派遣を早く決めて欲しいとの書簡を送る。

 

同 4月12日付

富田から新島への書簡。

松倉の手紙(仙台方好都合)が同封され、4月3日の書簡の返事を促す。

 

同 4月末

アメリカンボードより新島への書簡。

「仙台ニ着手スヘシ」との連絡を受ける。

 

同 5月10日

新島から富田へ電信。

5月14日出立、上京と連絡。

 

同 5月14日

神戸港を発し、16日横浜上陸。17日に上京、富田宅へ。

(小崎、松山、湯浅来訪)

 

同 5月17日

新島、押川会談(第2回)

「松山ノ宅ニテ押川氏ト面会シ、仙台ノ事ヲ計ル事定マラズ」。押川は、「教会ノ一致(合同)セサル内デモ、学校ノ一致(連合)ヲ望ム」とまで発言したが、「事定マラズ」であった。

 

同 5月18日

新島、押川会談(第3回)小崎宅

押川は「一致シテ共ニヤリタシ」と云うが、「何ノ決リタル事」もなく別れる。

 

同 5月19日

新島、押川会談(第4回)於南小田原の某宅

この時、仙台の情報が富田を通して新島に知らされており、押川は、県令からすでに富田の学校計画があるので、これに賛成するから、押川の計画を助ける訳には参らぬと断られ、仙台に同種の学校をつくるのは無益であると言われていた。押川は松倉にも働きかけたが、富田氏の報を待つといわれ、松倉は押川の求めに応じていない。

押川は仙台においては四面楚歌の状態で、とにかく一致してやりたいと主張した。この席で、新島は先の富田の提案通りの「予ハ発起人ノ地位ニ立タス、又主人ノ場合ニ立入ラス成ル可ク丈ケ仙台人ニ譲リ予ハ招待ヲ受ケタル客人トナルノ意ヲ押川兄ニ陳シタリ」の発言をした。

 

同 5月19日

富田日記(三十間堀)

鈴木大亮、佐和正、大槻文彦、新島襄「仙台ニ英学校創設ノ内議ヲ為ス何モ大賛成兼テ富田君カ大槻氏ヲシテ記サシメタル仙台英学校ノ旨趣書ヲ出シ、之ヲ可否スルヲ乞ヒタリ

「英学校設立スルノ趣意書」に新島が合意。

 

同 5月20日

新島が仙台に向けて出発。(会津若松、米沢、福島に路をとり)

 

同 5月23日

富田が学校設立の依頼書を、松平県令、黒川剛、松倉恂に郵送。新島を仙台に迎え入れる準備を指示。

 

同 5月29日

新島襄、仙台に入る。国分町の針生久助方に宿。(針久旅館)

 

同 5月30日

新島襄、清奇園に宿泊。

黒川剛、但木良次、十文字信介、岩渕廉、松倉恂と晩飯をともにし懇談。

 

同 5月31日

新島襄、松倉の案内で、宮城県令松平正直宅を訪れる。

松平県令と面談のあと、芳賀真咲、十文字信介、松倉恂の案内で、英学校校地候補の陸軍省の用地(4,200坪)を検分、午後清奇園に松平県令来訪、二人だけで面談の結果、「学校大体ノ談判相済ム」と新島が記す。

その後、宮城県師範学校長秋山恒ニ郎の来訪を受ける。夜、十文字信介の招待を受け十文字宅へ行き、晩飯をともにする。黒川剛、松倉恂も同席する。

 

同 6月1日

松平県令が清奇園を訪ね、学校創立の件につき協議、ほぼ決着をみる。黒川剛、芳賀真咲、十文字信介同席。面談中、押川が来訪されたが、「・・・・・止ム事ヲ得ス同兄ニ面談スルヲ辞ス」。

 

同 6月2日

松平県令主催の晩餐会が把翠館で行われ、デフォレストとともに出席。有志家より5,000円の寄附があったことを披露。さらに学校の宗教的基盤を、同志社と同一にすることの保証も確約した。

「・・・・・・仙台ニテ如斯事速ニ運フ事トハ思ハサリナリ」という程の進展ぶりであった。

 

同 6月3日

デフォレストは、ホーイと押川に会い、男子校設立計画から全面的に撤退し断念するとの回答を得た。

 

同 6月5日

新島富田会談

新島は、5日午後東京に着き、ただちに富田家を訪ね仙台での協議の様子を報告した。学校の運営方法を協議。このあと、湯浅治郎、小崎弘道、松山高志が新島を訪問し、仙台の英学校設立計画の現状を聞き懇談した。

 

同 6月

「英学校設立スルノ趣意書」公表

「内外教育景況」欄に掲載、宮城教育雑誌(6月30日刊)。

資料には、年月日、発起人が記されていない。

 

同 7月26日~8月6日

新島襄、仙台に赴く。

宮城県役人や、仙台の準備委員との交渉を重ね、校舎建築地、校舎、外人宣教師に関するエグリーメント、教員構成、宮城英学校概則などを協議した。

 

同 9月25日

「宮城英学校設置申請書」提出

 

同 9月29日

県知事松平正直によって認可。

 

同 10月11日

宮城英学校開校

入学者数 107名

 

明治20年(1887)5月14日付

新島宛富田鉄之助書簡

校名を東華学校と変更、規則の起草、商議員会構成について知らせてくる。

 

同 5月29日付

松平知事より新島への書簡

宮城英学校は東華学校と改称、規則も決定し、学校新築落成式執行の時より実施すること、

 

同 6月7日

「学校名称ノ儀ニ付申請」が松平知事に提出され、知事はその日に決判された。

 

同 6月8日

奥羽日々新聞に広告

経営主体である東華議会が創設され、会長松平正直、副会長和達孚嘉、商議委員10名と併せ、英学校を東華学校と改称することを広告。

 

同 6月17日

東華学校開校式

新島夫妻出席。

校門には 「東華学校」

楣間破風に 「Seek Truth and Do Good」

(真理を求め善を為せ)

講堂には 「修実徳勿求虚栄」

(実徳を修め虚栄を求むる勿れ)

の扁額が掲げられていた。

 

20年より21年と東華学校は順調な成長段階を踏んでいった。しかし、日本国内の世情は、キリスト教主義学校の維持発展には障害となる風潮が兆していた。

森有礼文相のもとで制定された学校令の一つとして、中学校令が公布され、尋常中学校、高等中学校の制度が定められ、東華学校はこれらの文部省制度を反映して、規則を改定する必要があった。当時の宮城県の教育界は、複雑な事情を呈していた。その主原因は、森有礼文相の教育行政によるものである。結果、東華学校は度重なる規則の改正を続けていった。

 

同 7月21日

「東華学校規則改正ノ儀上申」

副校長市原盛宏より松平知事に提出され、8月3日決判となる。

宮城英学校概則とは大きくことなっている。

東華学校は「東華議会ノ設置スル所ニシテ仝会ノ所属トス」と明記している。

 

明治22年(1888)2月11日

「帝国憲法」の発布、続いて「教育勅語」発布となり、これを契機に一挙に国粋主義、反キリスト教主義への途をたどっていった。

 

同 7月5日

「東華学校規則書更正之儀上申」

東華学校校長代理和田正幾から県知事宛に申請。

副校長市原盛宏から校長代理和田正幾に替っている。市原盛宏が、同8月3日よりアメリカのイエール大学へ経済学を学ぶ目的で留学するため。

 

同 12月6日

東華学校規則追加之儀上申

和田正幾申請

 

明治23年(1889)1月23日

新島襄逝去

学校の柱とも思われていた新島校長の逝去は、東華学校の前途に暗雲がただよう前兆であった。

 

同 10月11日

東華学校規則変更之儀ニ付上申

和田正幾申請

 

明治24年(1890)1月5日

東華学校規則中更正之儀ニ付願

和田正幾申請

 

同 4月1日

東華学校規則書中学科課程表更正之儀願

和田正幾申請

 

同 5月

東華学校規則の改正

 

同 7月27日

「東華学校規則書更正之儀願」

和田正幾校長代理より舩越衛宮城県知事に提出され、教科としての聖書が廃止された。

デフォレスト以下外国人教師全員が総辞職、神戸へ引き揚げていった。商議員総代として佐藤三之助(七十七銀行取締役)が、神戸へ行き説得につとめた結果、25年3月迄嘱託教員として復帰することになった。

 

同 12月

県議会で県立尋常中学校再興を決議し、東華学校の廃止を決定した。この決定をみて、今度は東華学校の教員が一斉に総辞職することになった。

 

同 12月11日

遠藤市長の調停工作の結果、東華学校の生徒を再興の尋常中学校に受け入れることを条件に解決し、授業の再開となった。

 

明治25年(1891)3月17日

「東華学校閉校趣意書」を発表

 

同 3月24日

東華学校閉校

日本国内の世論は反欧化主義となり、教育勅語の発布により一挙に国粋主義、排外主義、反キリスト教主義への途を辿っていった。

東華学校は、この逆風の中で明治22年8月の副校長市原盛宏のアメリカ留学、続いて精神的支柱であった23年1月の新島襄の急逝でさらに追い打ちをかけられた。

東華学校閉校の要因は種々挙げられるが、まず非クリスチャンの東華議会商議員たちが聖書科削除をすれば反キリスト教感情が薄まると考えたこと、一方外国人宣教師たちは、自分達教員である限り、学校への敵意はとり除けないと考えて総辞職したこと。なんといっても最大の要因は、徴兵令第13条認定による兵役免除の特典をもつ、宮城県立尋常中学校の設置である。これにより財政的にも存続不可能となり、開校以来5年半という短い期間を以って、東華学校は明治25年3月24日閉校となったのである。

(以上)

 

 


 

 

仙台造士義会のメンバーで宮城英学校設立運動に協力した人々

 

富田鉄之助

仙台藩重臣実野保の四男。仙台造士議会初代会長。勝海舟の氷解塾の俊才で、徳川幕府の公許を得て海外へ留学した最初の留学生。二代目日本銀行総裁、貴族院議員、東京府知事を歴任。

 

鈴木大亮

青年期に江戸に出て西洋砲術、漢学などを学び、黒田清隆と知り合う。維新後、黒田と共に北海道開拓使となり、のち農商務官、大蔵省の大書記官、水産局長を歴任して、秋田県知事、石川県知事、貴族院議員を歴任。仙台藩士。

 

大槻文彦

大槻盤渓の三男。仙台造士義会二代目会長。開成所で、漢学、バラ(一致教会牧師)のもとで英学を学び、文部省に入り初代宮城師範学校長に就任。辞任後、文部省に戻り「言海」を著す。

「宮城英学校設立するの趣意書」の起草者。東華学校廃止後、この校舎を利用して設立された宮城県立尋常中学校(仙台一高)の初代校長となる。

 

佐和 正

藩校養賢堂に学び、のち江戸に遊学。戊辰戦争では、佐幕派として奔走。脱藩により家跡没収となり一時身を隠し、谷地孝治の変名を使う。のち、警視庁に奉職、少警視、権大警視となり、欧米の警察制度を調査。1885年に、伊藤博文全権大使に随行し清国に赴く。青森県知事、宮城商業銀行初代頭取歴任。当時、富田鉄之助、鈴木大亮と並んで仙台三傑と呼ばれていた。

 

横尾東作

戊辰戦争に対する諸外国の中立を促すため、各国公使への奥羽越列藩同盟の檄文を携えて、横浜に潜行し、官軍の探索の目を逃れながら活動した唯一の人物であった。その後、赦免され東京府官吏、仙台の英学校教授、警視庁警視等を歴任し、退職後は南洋貿易に従事。仙台藩英学者の先駆者である。

 

荒井泰治

中江兆民の仏学塾に学び、東京にいる仙台出身の官吏や学生の親睦を目的とした「仙台義会」を結成した。のち富田日銀副総裁に引き抜かれ日本銀行に勤務、富田が総裁を辞任したため日本銀行を去り、鐘淵紡績会社支配人等を歴任したあと、後藤新平の信任を得て台湾商工銀行頭取に就任した。

 

黒川 剛(大童信太夫)

藩主伊達慶邦の近侍となり、江戸藩邸尾留守居役、藩内きっての開国、開明論者で洋学書生を援助した。福沢諭吉の私塾にも通い親交があった。戊辰戦争のときは、家老但木土佐を松倉恂とともにこれを輔け、江戸にあっては佐幕派を援助した。戦後脱藩、家跡没収となり、東京に潜伏し逃走中は黒川剛と変名。福沢諭吉の奔走により藩邸に自首し、のち許されて大蔵省に出仕し、文部、内務両省に転じ、宮城県牡鹿、黒川、石巻、宮城郡長を歴任する(十文字信介の義父)。

 

松倉 恂

仙台町奉行の子として生まれる。小姓から評定所役人となり、兵具奉行、屋敷奉行を兼ね軍器の改良、銃器の購入に力め軍艦奉行となる。外国商社から汽船購入と航海や国防を掌る。戊辰戦争には公儀出入司として藩財政を主務し、大童信太夫と家老但木土佐を輔け、藩論を統一し奥羽同盟を結成、戦後脱藩に付家跡没収となり、大童信太夫らと潜伏生活を送る。のち赦されて大蔵省に出仕、愛媛県、岩手県に勤務。明治11年、初代仙台区長に就任。富田鉄之助とともに宮城英学校設立発起人となる。

 

十文字信介

明治4年上京し、箕作麟祥塾で英学を修め、海軍兵学校に籍を置いたが、津田仙が学農社を創立するとそれに入り、「農学雑誌」の編集を担当。二年間在職後広島県勧業課長となり、養蚕を奨励した。その後父の死去により宮城県に帰省し、宮城県勧業課長に就任、翌年県立農業学校の初代校長となる。その後仙台区長、衆議院議員を歴任。(黒川剛-大童信太夫-の娘婿)

 

岩渕 廉

富田鉄之助の実母の家系で鉄之助の「乳兄」に当たる。鉄之助が仙台に帰省のときは、宿泊所となっていた。

 

但木良次

仙台藩家老但木土佐の一族で土佐の甥に当たり、戊辰戦争のときは榎本武揚と行動をともにし、箱舘戦争に参加した。戦後宮城県の役人となり、東華学校開校時は宮城の郡長をしていた。